どうも、最近GWのキャンプに何を食べようか、メニューを考えてばかりいる、なこです。BBQはもちろん、チーズフォンデュもします。食べてばっかりになりそう。
さて、今回は、堅苦しい表題なのですが、最近ふと、ある男性と話している中で出てきた会話で疑問に感じたことがありこの記事を作成しました。
きっかけはある一言から
とある会話の流れから、”今年のお盆休みは実家に帰って、お墓参りだ~”と私が話していると、
俺は、帰らないよ。俺が、祖父の墓参りに行かなくても、祖父と俺の関係は変わらないしね。
と理路整然と言う男がいた。論理的にそうだよね?と。
うん、まあ、その通り。あなたと、あなたの祖父との関係は、墓参りごときで変わるはずがなかろうよ。
でも、何だろうか、このモヤっとする気持ち。
「おい、こら、ちょい待て、そこ座れ」
と説教をしたくなるような。
論理的な考え方と、感情がぶつかった瞬間だった。
論理的思考と感情
上述の会話をした男性は、関西出身で渋谷区在住の30代前半の広告代理店経営者だ。地方の大学院卒業後に上京し、広告代理店勤務後、3年前に企業し現在に至る。
社長という役職上、彼の思考が超絶論理的なことは仕方がないだろう。感情的な社長では、すぐに会社が潰れてしまいそうだし。では、そもそも論理的思考とは、どういうことなのか、正確な意味を捉えた上で考えたいと思う。
●論理的思考
なるほど。
根拠や妥当性がある考え=論理的な考え
ということになるのか。
では、彼の
墓参りに行ったところで、祖父と彼の関係は変わらない
という考えは、確かに論理的だ。彼の祖父は亡くなっているのだから、関係性は変わりようがないので、根拠や妥当性があるといえよう。
と、なると彼は間違ったことを言っていないということになってしまう。
では、何故私はモヤっとしてしまうのだろうか。
この会話中の私の頭の中では…
私はお墓参りに行くけど、彼は行かない
⇒なぜなら、お墓参りに行っても、祖父との関係性は変わらないから、いかなくてもOK
と、言う感じで、感情的に物事を捉えて考えていた。
合理的かつ、論理的に物事を考える彼とは、思考回路から違っているのである。
では、感情とはどういうものだろうか。先ほどと同じように文字に起こしてみる。
●感情とは
感情とは、根拠や妥当性がはっきりとしない。
いや、考えている本人の中でしか成立しない、根拠や妥当性ならあるのかもしれない。
人はそれぞれ、何事においても自分自身の中で感情スイッチが入る基準値があると思う。例えば、私なら、今回のように、論理的に考えてお墓参りに行く必要がない、と結論付けた彼に腹が立った。彼の考え方が、私の中の基準に達しなかったからだ。
でも、彼は彼の中の基準にのっとり、今回の結論を出しているので、違和感を感じることはないし、苛立ちもしない。
感情スイッチが入る基準は、人によってばらばらだ。その人が育ってきた環境や経験によって、それぞれの基準値が定まっていく。
●論争の終着点
今回の私たちは、それぞれの価値観の正義のもと、結論付けた結果に食い違いがあった。どちらかが、間違っていたのだろうか。
結論から言えば、どちらも間違いではない。
一見、感情的に考えた私の方が人間味あふれる優しい人のように感じられるかもしれない。でも、少し見る視点を変えてみる。
彼が、「関係性は変わらないからお墓参りに行かない」と結論付けた理由として以下のような背景があればどうだろう。
この背景を知った後では、お墓参りに行かない、という彼の選択に賛同する人が増えるだろう。そして、無神経に自分の価値観を押し付けて、お墓参りに行かないことに説教をしようとしている私の意見に、批判が集まるんじゃなかろうか。
逆に、上述のような背景はなく、ただ面倒だから、という理由で行かないということであれば、彼に批判が殺到するだろう。
”人は感情の奴隷だ”
と誰かが言っていたのを思い出す。本当にその通り。論理的に考えられるようになるには、訓練が必要だ。特にビジネスの現場では、感情的になってしまう人は、嫌煙されがちだ。
感情的になるべき場所、論理的に思考しなければいけない場面をうまく見極めて、切り替えて考えることが出来れば、人生がもっと楽になるかもしれない。
論理的思考力を鍛えたい方におすすめ!
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